【清州ポソン病院 緊急救命センター前】
−あの...もしかして私をご存じありませんか?私の名はイ・チョインです...私の名は、イ・チョインです。もしかしてご存じありませんか?
私が分かりませんか?
ふと脳裏に浮かんだ携帯の番号を押すチョインは、相手が義兄ソヌであることまでは、まだ思い出せないまま、電話口で話し続ける。電話を受けたソヌは、チョインが自分の名前を取り戻したことにショックを受け、絶句したまま携帯電話を握りしめていた。そんなソヌの部屋にソヨンが昼食を手に姿を見せる。ソヨンに微笑みかけた後、背中を向けてチョインに冷たく答えるソヌ。
−電話をかけ間違えたようですね...
−私が...記憶を失っているんです...突然、この番号が思い浮かびました...
−仕事中なんです...
−もう一度考えてみてくれませんか?私の名前は、イ・チョインです!私を...
ソヨンが目の前にいることで、どうしようもないソヌはチョインからの電話を切ってしまう。ソヨンを待たせて部屋を出たソヌは、チェ・ボックンに連絡を取り、何故早く処理しないのかと急き立てる。
一方、電話を切られてしまったチョインが、糸口を見失い失望して立ちつくしていると、チョイン姿を見かけて後を追って来たキム・ヒョンジュが声をかける。
−チョイン!もしかして...イ・チョイン先生ではありませんか?
ゆっくりと振り返るチョインは、一歩遅れて駆けつけたヨンジの姿に気づく。
−イ・チョイン先生でしょう?
−いいえ...人違いです...私の名前は、オ・ガンホです。
−違います、イ・チョイン先生です。先生、この人はイ・チョイン先生です。
チョインが驚いた表情でヨンジを見つめると、ヨンジは決意したようにチョインに一歩一歩近づく。
−先生...先生はポソン病院にいらしたイ・チョイン先生です。6ヶ月前に、中国上海に出張でいらっしゃったイ・チョイン先生です...私は、先生が中国の上海にいらっしゃったとき、先生のガイドをしたオ・ヨンジといいます。オ・ガンチョルの妹、オ・ヨンジでもありますが、中国で、先生が手術を見学されたときや、土楼での医療検査にもついて行ったオ・ヨンジでもあります。それが...全く先生に記憶がない中国の地に、オ・ヨンジもいたんです。カンホオッパ...いえ、イ・チョイン先生、本当のことを申し上げられず、申し訳ありませんでした。もう、オ・ガンチョルの弟オ・ガンホも、このどうしようもない女オ・ヨンジも...全部忘れて下さい...先生は記憶を取り戻すために...去ってください。
黙ってヨンジの話を聞いていたチョインが、背中を向け歩き出すヨンジを追う。
−今何の話をしているのか、何も分からない...初めて僕を見た時から、分かっていたという事ですか?
−...はい...分かっていました...
−僕がオ・ガンホでなく、イ・チョインだと分かっていながら...隠していたという事ですか?
−はい...
−どうして話してくれなかった?僕がイ・チョインだということを...どうして話さなかったんです?
−寂しくて...カンチョル兄さんも亡くなって...私がこの世で信じられる人が、先生しかいなかったんです...
−少し時間が経ってからでも、話すことができたじゃないか...毎晩悪夢にうなされ、あんなに苦しんでいたのを傍で見ていたのに、どうしてそんなことができるんだ?
−好きだったからです...私がイ・チョイン先生を好きだったからです...先生を好きで、欲が出て、傍にいたくて、先生が記憶を取り戻したら永遠に戻ってこない気がして、だから言えませんでした...分かります、私も自分が間違っていることが分かります...遅すぎたことも分かっています...だから、もう、先生の記憶を探しに、去ってください...本当に悪かったと思います...ごめんなさい、先生...
真実を伝えられても、全てを信じることができないチョインは、呆然としたままヒョンジュにうながされ病院内へ入る。ヒョンジュから自分の医師だった頃の
経歴を聞かされても、何一つ実感することも、受け入れることもできない。チョインの心理状態を理解しながら、ゆっくりと取り戻せばいいと笑顔を浮かべるヒョンジュ。
−先生の仰る通り、何一つ信じることができません...今は誰が何を言おうと、信じられません。
−チョイン、あなたのその目で直接確認しなければ信じることはできないわね...明日ソウルに一緒に行こう...病院に行って...
−砂漠で...銃で撃たれました...
−何?
−中国で...誰かが僕を殺そうとしたのに...それが誰なのか、それを知る人が誰なのか、何一つ分かりません...私が直接、確認したいんです...今は、誰一人信じられません...申し訳ありません
−チョイン、あなたの言葉の通り、本当に誰かがあなたを殺そうとしたのなら、今あなたがこうして生きていることも、彼らにとっては
途方もない衝撃になるわ。純粋に生きてきたあなたを、遺骨箱に入れて送った奴らだもの...記憶を取り戻すまで、気をつけないと...
その頃、チェから知らせを受けたソヌが、慌ててソウルから清州に駆けつける。清州ポソン病院の救急医療センター内に入り、チョインの姿を探し始める
ソヌ。突然のソヌの訪問に驚いたヒョンジュは、ソヌの表情
から何かを感じ取り、チョインが姿を見せた事実は伏せたまま何気ない会話を交わす。
その夜、チョインの居場所を知るチェからの連絡を受けたソヌは、チョインが呆然と座り込んだままのベンチの隣に近づくと、何気なくベンチに腰を下ろす。チョインの記憶が戻っていないことを確信したソヌは、チョインの隣で携帯電話を取り出し、チェに連絡を取ると、チェに再びチョインを処理するようにと再び冷酷な指令を下す。
【ポソン病院 チョンミンの病室】
チョインが生きていた事実を真っ先にチョンミンに知らせたいヒョンジュは、その夜ポソン病院へと急ぐと、横たわったままの院長に語りかける。
−本当なんですよ...本当です...チョインが生きていたんです、院長。いいえ、生きて戻ってきました、院長。嬉しいでしょう?私も嬉しいです。始めは信じられませんでしたが、本当にチョインです、院長。こんなこと申し上げるのはどうかと思いますが、チョインがこんなふうになって戻ってきたこと...何か他に理由があるようです...いくら記憶喪失中だといっても、あんなに純粋な子を...院長の手術も、本来ならチョインと一緒に...
重要な話を口に出し始めると、全く動かなかったはずのチョンミンの指が動き、ヒョンジュの後ろを指さす。驚いたヒョンジュが振り返ると、そこにはヘジュの姿があった。チョンミンは体の一部が動き始めたことをヘジュには隠していたのだ。事情を察したヒョンジュは、ヘジュと軽く挨拶を交わし、病室を後にする。
【ヨンジ 仕入先の市場〜チョインと青南台へ】
チョインのいない部屋で、一人泣いたまま眠りについたヨンジだったが、翌朝、いつものように市場に向かう。ヨンジが一人で商売のための仕入れをしていると、チョインが姿を見せ、ヨンジが買ったばかりの野菜の荷を解き始める。
−先生、何してるんです?
−ついてきて...
自転車を引き、歩き出すチョインは、呆然と立ったままのヨンジの方に振り返る。
−ついてこないの?約束したら守らなきゃ。遠足は行かないの?
ヨンジを乗せて自転車をこぎながら、チョインが大きな声でヨンジに語りかける。
−ヨンジさん!僕はヨンジさんを信じてたんですよ。だから戻るか、戻らないか、まだ良く分からない...だから僕を待たないでください!
−はい、分かっています...先生、家にちょっとだけ戻ってもらえませんか?
家に戻ったヨンジは、チョインに手渡すつもりでいたソヨンのCDとチョインのための背広などの洋服と真新しい靴を準備すると、チョインとともに青南台へと出かける。湖のほとりのベンチに座り、沈みかける夕日を見つめる二人。
−ヨンジさん...ヨンジさんが、中国で僕をガイドしてくれたって言いましたよね?僕はどんな人でしたか?
−始めは、先生が詐欺師で、浮気者だと聞かされていたんです...カバンの中に薬が山ほど入っていたことや、マッサージを頼みましょうかと言ったら、部屋で私にマッサージするようになんて言
ったり、そして冷たく部屋を追いだされました...。その上先生の都合で日程も変えてしまって、ずいぶん利己的な人だと思いました。でも、先生は、病院で手術の視察も熱心に
されて、土楼で子供に治療してあげて、一緒に写真を撮る姿を見ていたら、先生をとっても温かい人だな、と思いました。それに、先生は私に盲腸の手術もしてくれました
−盲腸の手術ですか?
−はい。私が脱北者だとっくに分かっていながら、本当に精一杯手術をしてくれました。手術の場所も道具もなかったのに、です。それにね、盲腸の手術を甘く見るなと、一人でいるとき痛んだらつらいだろうと、元気を出せと手紙を書いてくれて、一緒に写真も撮りました。
カバンからチョインが書いてくれた手紙を取り出し、チョインに手渡すヨンジ。手紙を開いて読み始めるチョインは、想像もできないかつての自分の筆跡と文章に戸惑いを感じ
ながらも無心に読み進める。
−先生に出会って...本当に、先生のような人がいらっしゃる南朝鮮へ行けば、何も心配いらないような気がしました。それで密航船に乗る決意をして、こうして韓国に入国しました。この手紙は...私にとってただの手紙じゃないんです...私の心の中の、羅針盤のようなものでした。
ヨンジの告白に耳を傾けながら、ヨンジの置かれた境遇に胸を痛めるチョイン。二人はヨンジの上司の配慮で、営業が終了した大統領別荘で夜を迎える。ヨンジが徐々にチョインを元の場所に戻すための準備をし始め、その夜ソヨンに電話で連絡を取る。その頃ソヨンはソヌと共に過ごしていた。チョインに関するもので渡したい物があると話すヨンジは、ソヨンにチョインを迎えに来てもらうのが一番だと考えていたが、ソヨンと共にいたソヌが全てを知ってしまい、顔色を青くしていることまでは想像していなかった。
夕食にヨンジが用意したじゃがいも餃子スープを食べながら、これまでヨンジが自分にしてくれたことをしみじみとかみしめるチョイン。
そんな二人の部屋に警備員が近づいてくると、二人は慌てて明かりを消してテーブルの影に隠れることになる。ヨンジがいつも逃げてばかりで申し訳ないとチョインに謝ると、チョインが不安な気持ちをヨンジに話し始める。
−ヨンジさん、僕...明日病院に行きます。家に戻るんだから、楽しくて幸せじゃなきゃならないのに...怖いんだ...僕が覚えていない数多くの人たちが、僕に気が付
くだろう...ひょっとして、僕を殺そうとした人たちも、そこいるかもしれないのに...僕は馬鹿みたいに、彼らを見て笑うんだろうな...
−先生、あまり心配しないで下さい...先生を助けてくれる人も必ずいますから...
−僕が記憶を取り戻したとしても、ヨンジさんと清州で過ごした時間が...僕にとって、一番幸せだった時間だったと思うかもしれない...(ヨンジを見つめるチョイン)...戻ります...僕...戻ります...ヨンジさん...
ヨンジを見つめ、優しく抱き寄せるチョインは、ヨンジの元に必ず戻ることを固く約束する。そんなチョインの温かい胸の中で、ヨンジは別れを覚悟
していた。
−先生、分からないですよね...先生が記憶を取り戻せば、私なんてすっかり忘れてしまうんです。もしかして今日のこの瞬間も忘れてしまうかもしれない...それでも私はかまいません、先生、先生と一緒に過ごした今日の記憶だけでも、先生を一生待ち続けることができます...
ヨンジのために毛布を取りに行ったチョインが部屋に戻ると、ヨンジの姿は見当たらず、置手紙と洋服と靴、そしてソヨンのCDがあるだけだった
。先生が亡くなったという知らせを聞いて、最も悲しんでいた人、そして先生が愛していた人はキム・ソヨンさんだと書かれていたヨンジの手紙には、翌日、ソヨンと会える場所も書かれていた。
ヨンジが準備した服を身につけ、必ずヨンジの元へ戻ると心に誓いながら約束の場所へと向かうチョイン。ヨンジもまた、チョインがソヨンに会えるまで見届けるつもりで近くでそっと見守っていた。ソヌはソヨンを乗せた車を不安な気持ちのまま運転していたが、とうとう約束の場所に到着してしまう。チョインを見守っていたヨンジは、チョインが横断歩道を渡る途中、彼に向かい猛スピードで走る車の運転席にいるチェの姿を発見し、迷わず走り出す。
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